Jump to content

Bokuyō Katayama: Difference between revisions

From Wikipedia, the free encyclopedia
Content deleted Content added
KamillaŚ moved page User:KamillaŚ/sandbox2 to Peter Gertner
Tag: New redirect
 
Removed redirect to Peter Gertner
Tags: Removed redirect Visual edit: Switched
Line 1: Line 1:
#REDIRECT [[Peter Gertner]]


[[file:Katayama Bokuyo - Mori (Forest) - Google Art Project.jpg|thumb|「森」(1928年)]]
{{Redirect category shell|
'''片山牧羊'''(かたやま ぼくよう、[[1900年]]([[明治]]33年) - [[1937年]](昭和12年)[[8月26日]])は、[[明治期]]の[[日本画家]]。庄田鶴友、蔦谷龍岬、[[荒木十畝]]に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。
{{R from move}}

}}
== 生涯 ==
1900年、[[尾道市]]長江町に生まれる。本名健三。<ref name=":0">[https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyama-museum/2903.html]</ref>父は漢学者の片山辰之助。<ref name=":1">[https://www.onomichi-museum.jp/collection/nihonga/23.html]</ref>1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、[[短歌]]集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」を出品、初入選で特選を受賞する。1928年、第9回帝展に「森」を無鑑査出品する。久邇宮家の格天井に「曼珠沙華」を描く。1929年、第10回帝展に「漁村春懶(ぎょそんしゅんらい)」を出品。[[柳悦孝]]が書生として入門。1930年、第11回帝展に「破寂」を出品。1931年、柳悦孝が日本画から工芸に転じ、書生をやめる。[[塩出英雄]]が福山から上京し門下生となる。1931年「かげろう」を出品した直後に病に倒れ、再び帝展に姿をみせることはなかった。1932年、妻の実家、福山市松永町に帰郷する。1935年、[[サイパン島]]に旅行する。(同年帰国)1937年8月26日、逝去。<ref>[https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8463.html]</ref>

牧羊は「[[幽玄]]」をキーワードに作品の構想を練り、能の世界観のようなものを表出しようと苦心した画家でした。片山牧羊の画壇での実質的な活躍は、昭和2年から6年までの5年間と短いものでした。病のため志半ばで絶たれた悲運の画家といえます。そのため、遺された作品は非常に少なく、優品となるとさらに希少となります。
== ギャラリー ==
<gallery>
File:Oboro by Katayama Bokuyo.jpg|「おぼろ」(1927年)
File:Gyoson Shunrai by Katayama Bokuyo.png|「漁村春懶(ぎょそんしゅんらい)」(1929年)
File:Sabishii by Katayama Bokuyo.png|「破寂」(1930年)
File:Kagerou by Katayama Bokuyo.png|「かげろう」(1931年)
</gallery>
== 脚注 ==
{{reflist}}

Revision as of 17:53, 7 August 2021

「森」(1928年)

片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、明治期日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。

生涯

1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。[1]父は漢学者の片山辰之助。[2]1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」を出品、初入選で特選を受賞する。1928年、第9回帝展に「森」を無鑑査出品する。久邇宮家の格天井に「曼珠沙華」を描く。1929年、第10回帝展に「漁村春懶(ぎょそんしゅんらい)」を出品。柳悦孝が書生として入門。1930年、第11回帝展に「破寂」を出品。1931年、柳悦孝が日本画から工芸に転じ、書生をやめる。塩出英雄が福山から上京し門下生となる。1931年「かげろう」を出品した直後に病に倒れ、再び帝展に姿をみせることはなかった。1932年、妻の実家、福山市松永町に帰郷する。1935年、サイパン島に旅行する。(同年帰国)1937年8月26日、逝去。[3]

牧羊は「幽玄」をキーワードに作品の構想を練り、能の世界観のようなものを表出しようと苦心した画家でした。片山牧羊の画壇での実質的な活躍は、昭和2年から6年までの5年間と短いものでした。病のため志半ばで絶たれた悲運の画家といえます。そのため、遺された作品は非常に少なく、優品となるとさらに希少となります。

ギャラリー

脚注