藤井系統:修订间差异
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'''藤井系統''' |
'''藤井系統'''({{Lang|ja|ふじいシステム}}),是[[日本]][[将棋 (日本)|將棋]][[振飛車]]中[[四間飛車]]的一種戰法,由將棋棋士[[藤井猛]]發明。<ref>藤井在1998年度的NHK將棋講座中解說本戰法,隨後便於龍王戰直落四從[[谷川浩司]]手中奪取頭銜。</ref>其後,藤井猛也以此戰法獲得了1998年將棋大賞中的[[升田幸三賞]]。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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是[[藤井猛]]發明的[[四間飛車]]戰法,特別是作為[[居飛車]]穴熊對策十分受到注目,而藤井猛自身也作為此戰法的第一人活躍於棋壇 |
是[[藤井猛]]發明的[[四間飛車]]戰法,特別是作為[[居飛車]]穴熊對策十分受到注目,而藤井猛自身也作為此戰法的第一人活躍於棋壇。 |
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如後述所敘,藤井系統可分為[[左美濃]]對策的和穴熊對策的藤井系統。後者的特徵即是當對手以圍穴熊為目標時便在對手完成之前挑起戰事,若是放棄穴熊選擇急戰仍可以圍玉的堅硬程度位處優勢。比起特定棋子的動法,自陣全體攻守的陣型組織更是其特徵,因此不被稱為「戰法」而是「系統」。 |
如後述所敘,藤井系統可分為[[左美濃]]對策的和穴熊對策的藤井系統。後者的特徵即是當對手以圍穴熊為目標時便在對手完成之前挑起戰事,若是放棄穴熊選擇急戰仍可以圍玉的堅硬程度位處優勢。比起特定棋子的動法,自陣全體攻守的陣型組織更是其特徵,因此不被稱為「戰法」而是「系統」。 |
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一直以來當居飛車選擇持久戰時,都會選擇像是[[5筋位取]]、[[玉頭位取]],甚至從船圍發展成矢倉等發展系的圍玉,然而當雙方互相攻擊時,特別是在橫向的防守顯得較為脆弱。然而當左美濃、居飛車穴熊開始發達起來,居飛車得到了與振飛車同等甚至更堅固的圍玉,振飛車的勝率開始極端的下降。特別是在頂尖棋士間此現象格外明顯,像是[[羽生善治]]、[[森内俊之]]、[[佐藤康光]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]等下居飛車穴熊時,除了佐藤後手的情況是0.588,其他七種都具有七成以上的高勝率,尤其羽生先後手合計時勝率已超越九成。<ref>[[勝又清和]]『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)、p108。一直到2006年春的數據。</ref>(一般先手的勝率只有比5成再高一點點而已 |
一直以來當居飛車選擇持久戰時,都會選擇像是[[5筋位取]]、[[玉頭位取]],甚至從船圍發展成矢倉等發展系的圍玉,然而當雙方互相攻擊時,特別是在橫向的防守顯得較為脆弱。然而當左美濃、居飛車穴熊開始發達起來,居飛車得到了與振飛車同等甚至更堅固的圍玉,振飛車的勝率開始極端的下降。特別是在頂尖棋士間此現象格外明顯,像是[[羽生善治]]、[[森内俊之]]、[[佐藤康光]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]等下居飛車穴熊時,除了佐藤後手的情況是0.588,其他七種都具有七成以上的高勝率,尤其羽生先後手合計時勝率已超越九成。<ref>[[勝又清和]]『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)、p108。一直到2006年春的數據。</ref>(一般先手的勝率只有比5成再高一點點而已) |
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因此,不僅要想出左美濃.居飛車穴熊的對策,其對策中也要包含對付居飛車一直以來右銀急戰的方法。以藤井系統來說: |
因此,不僅要想出左美濃.居飛車穴熊的對策,其對策中也要包含對付居飛車一直以來右銀急戰的方法。以藤井系統來說: |
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* 對左美濃時,不讓對手組成理想形,以直接進入玉頭戰為目標。 |
* 對左美濃時,不讓對手組成理想形,以直接進入玉頭戰為目標。 |
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* 對居飛車穴熊時, |
* 對居飛車穴熊時,從一開始就不讓對手圍玉,或者,以在對手完成圍玉之前開戰為目標。其中包含了不圍玉(居玉)就攻擊想圍穴熊的對手、從振飛車轉換回居飛車、甚至如同[[雀刺戰法]]一般將勢力集中於端等種種戰鬥方式。。 |
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[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]九段 |
[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]九段的Super四間飛車和[[杉本昌隆]]七段的研究都成了日後藤井系統的基礎。<ref>例如『[[将棋世界]]』2014年11月號中『我是這樣變強的』第2回—藤井猛九段之卷p75~76中藤井這樣講到:「第3圖。當我還是三段的時候看到杉本先生的將棋時想像的局面,如果這時候跳起▲2五桂的話會如何呢?平成4年9月,銀河戰中我在對手的神崎健二五段身上是了一下。(中略)如同當時的手順進行至第4圖結果先手優勢。當時看到▲2五桂這手,解説者的中村修九段也『ㄟ—!』的叫了出來,對當時來說是嶄新的下法。試著下了一下卻了解到實際上非常難下,雖然之後都沒有再下過這一手,然而卻成為足以稱為藤井系統原型的一局。」</ref> |
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== 變遷 == |
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藤井系統廣為人知之前,振飛車方普遍對急戰沒有自信,而[[左美濃]]、居飛車[[穴熊]]等居飛車圍玉戰法在對抗振飛車時十分有效,這些圍玉不僅堅固程度不遜於振飛車的美濃,而且只要一進入持久戰,振飛車方就只有挨打的份,振飛車方對此一直缺乏對策,振飛車黨棋士也越來越少。[[青野照市]]引用[[森下卓]]的話如是說:「忙著研究矢倉都來不及了,對振飛車,穴熊和左美濃輪流用一用就好了。」<ref>『[[将棋世界]]』2007年9月號、「新手魂」p23。節自[[青野照市]]・[[勝又清和]]・[[上野裕和]]的對談。</ref> |
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身為振飛車黨,喜愛四間飛車的[[藤井猛]]發現,對左美濃戰中,振飛車方常出現銀冠。1995年全日本職業棋士將棋錦標賽(之後的朝日杯將棋選手權戰)藤井猛對行方尚史一戰中,他便嘗試在圍玉途中(2七銀.3九玉.4七金.4九金)把飛車移回右翼,殺向左美濃玉頭,這局被收錄在河口俊彥的《新對局日誌》中。此後,類似的構想也被林葉直子使用過<ref>[[河口俊彦]]『新対局日誌 第八集 七冠狂騒曲(下)』(河出書房、2002年、ISBN 4-309-61438-8)、p12 - 15。</ref>。雖然是藤井系統登場前的紀錄,攻擊左美濃玉頭的構想卻是共通的。 |
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=== 振り飛車党の減少 === |
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藤井システムが広く知られるようになる前、居飛車側は対振り飛車戦において急戦に自信がない場合、左美濃・居飛車穴熊で玉を固く囲う戦法が有効とされていた。これらの囲いは振り飛車側の[[美濃囲い]]と堅さが同じかそれ以上で、しかも持久戦模様になると居飛車側からのみ仕掛けの権利があった。これに対して振り飛車の有力な対策がなく、振り飛車を指す棋士が減少した。[[青野照市]]はこの頃の状況を、[[森下卓]]のセリフを引用して「矢倉の研究が忙しいから、振り飛車には穴熊と左美濃を交互にやってればいいんだ」と表現した<ref>『[[将棋世界]]』2007年9月号、「新手魂」23ページ。[[青野照市]]・[[勝又清和]]・[[上野裕和]]による対談より。</ref>。 |
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振り飛車党(四間飛車党)であった藤井も居飛車穴熊と左美濃への対応には苦慮しており、対左美濃戦において、振り飛車側も銀冠を見せて、その囲いの途中(2七銀・3九玉・4七金・4九金の状態)で飛車を右翼に戻して左美濃の玉頭に殺到する構想を試したことがある(1995年全日本プロ将棋トーナメント(のちの[[朝日オープン将棋選手権]])、[[藤井猛]]対[[行方尚史]]戦)。この将棋は[[河口俊彦]]の『新対局日誌』に取り上げられ、藤井はこの構想を[[林葉直子]]が指していたものだとしている<ref>[[河口俊彦]]『新対局日誌 第八集 七冠狂騒曲(下)』(河出書房、2002年、ISBN 4-309-61438-8)、12 - 15ページ。</ref>。これは藤井システムが登場する前の将棋であるが、左美濃の玉頭を攻める構想は共通している。 |
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{{Shogi diagram|tleft|△持駒 '''無''' |
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▲持駒 '''無'''<br/>藤井系統對左美濃|=}} |
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左美濃──特別是天守閣美濃──的特殊布局過去對振飛車黨來說特別難以攻略,而藤井系統最初就是對抗左美濃時發明的。 |
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本来の藤井システムは左美濃に対抗するための研究であった。左美濃、特に天守閣美濃は、その特異な形から振り飛車にとって攻略が難しかった。 |
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飛車突破防線後,雖然是進入橫向攻擊,但相較於振飛車方在第一、二段的王將,居飛車方的王將在第三段,這使側面攻擊需要花費更多手數,成為振飛車方大多敗北的原因。因此,藤井系統判定,不應該從側面攻擊天守閣美濃,反而應該縱向狙擊其弱點:玉頭。 |
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飛車先を突破した後は横から攻めることになるが、振り飛車側の玉が一・二段目にいるのに対して、居飛車側の玉は三段目にいるため、攻め合いになると手数で負けることが多い。そこで天守閣美濃の攻略にあたり、横からではなく、弱点である玉頭を狙った縦からの攻めを織り交ぜるようになった。 |
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把王將置於3九(7一),把步兵推到4五(6五),不讓對手組出理想的高美濃,接著,依序推進2六步(8四步)、2五步(8五步)以攻擊玉頭。然而,過早推進這枚步兵的話,會被對手以5三角(5七角)狙擊,因此在使用時必須十分周到。島朗就曾在NHK杯對上後手藤井系統時,使用▲5七角狙擊,然後開始硬組高美濃,在殺破藤井系統使用方桂頭後獲勝。常見的局面是突出5六步(5四步),轉換成[[三間飛車]],之後把角行拉下到6八(4二)直指玉頭,並與桂馬一同攻擊。單單▲2五步△同歩▲同桂就已經是很凶狠的手段了,而當對手角行不在3一(7九)時,對手若不把銀將拉下至2二(8八)(因為有▲2四步),便會留有直通的角道,因此居飛車方必須隨時提心吊膽。 |
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因為這是非常完備的戰法,在職業棋士對局中[[左美濃]]已經不再出現了。 |
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これは非常に完成された戦法であり、左美濃自体が[[棋士 (将棋)|プロ]]の対局ではあまり見られなくなっている。 |
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{{Shogi diagram|tleft|△羽生善治 持 |
{{Shogi diagram|tleft|△羽生善治 持駒 '''無'''|lg|ng| | | |gg|sg|ng| | |rg| | | |bg| |kg|lg|pg| |pg|pg|sg|gg| |pg|pg| | | | |pg|pg|pg| | | |pg| |ps| |ps| |ns| | | |ps| | | |ps| | |ps|ps|bs|ss|ps| | |ps|ps| | | |rs|gs| |ss| | |ls|ns| | | |gs|ks| |ls|▲屋敷伸之 持駒 '''無'''<br/>1997年度NHK杯戰第31手|=}} |
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現今的藤井系統中,主流變化是為對付居飛車穴熊而做的新研究。在居飛車穴熊完成前,以角道縱向攻擊為主軸,並兼備應付居飛車方急戰的對策。藤井猛發現,雖然花兩手突出1五步(9五步)在急戰中常被認為浪費手數,但在終盤時,因為己方圍玉比敵方寬廣,端筋(最旁邊的直行)空出了逃生通道,因此作戰餘地大幅增加。突出端筋步兵後,不圍玉,直接開始攻擊。當居飛車方走1二香(9八香)企圖圍玉時,己方便以2五桂(8五桂)6五步(4五步)開角道攻擊。後手急攻的話,就走4八玉(6二玉)3九玉(7一玉)向美濃演化。 |
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因為陣型非常有特色,模仿並不那麼容易,即使是職業棋士也很難運用自如,因此有道是「不是藤井就下不好藤井系統」。 |
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{{Shogi diagram|tleft|△持 |
{{Shogi diagram|tleft|△井上慶太 持駒 '''步'''|lg|ng| | | |gg|sg|ng| | | | |sg|gg| | |kg|lg|pg| |pg|pg| |pg|bg|pg|pg| |rg| | | | | | | | |pg| | |pg|ss|pg|ns| | | |ps|ps| |ps| | |ps|ps|ps|bs| |ps| | |ps| | | | |rs| | |ss| | |ls|ns| |gs|ks|gs| | |ls|▲藤井猛 持駒 '''無'''<br/>1995年度B級2組順位戰第29手|=}} |
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此系統在1995年12月22日藤井猛對井上慶太戰問世,47手後,對手井上便投降了。但藤井系統並沒有馬上成名,1997年NHK杯戰中,屋敷伸之對羽生善治下出類似棋形時,羽生感覺己方王將似乎遭到斜線攻擊,因而陷入長考是否要組居飛車穴熊,當時解說的[[田中寅彥]]也不斷發出驚嘆,結果羽生在下一手走△3二玉移回王將。 |
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現在「藤井システム」の主流の変化となっているものは、居飛車穴熊への新たな研究として現れた、言わば新バージョンである。居飛車穴熊が完成する前に角筋を頼りにした縦からの攻めを軸として速攻を仕掛ける体勢と、居飛車側が急戦に持ち込んだときの対策の、両方を兼ね備えた作戦となっている<ref>藤井猛『最強藤井システム』(1999年)によれば、▲1五歩と端に2手かける手は急戦相手だと緩手になると考えられがちであるが、終盤で自玉が広い(端に逃げ道が大きく空いている、という意味)ため、十分戦えるとされている。</ref>。 |
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1筋の[[歩兵|歩]]を突き越し、居玉のまま速攻を仕掛ける。△1二香と穴熊に囲おうとしたら、▲2五桂から▲4五歩と角筋を通して攻める。後手が急戦を仕掛けてきたら▲4八玉から▲3九玉と美濃囲いに移行する。 |
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1998年,藤井以這個戰法從[[谷川浩司]]手中奪取龍王寶座,振飛車因而復活重新席捲將棋界,其後的頭銜戰中也開始出現其他的振飛車戰法。 |
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駒組みが特徴的なため、真似るのは容易であると思われがちだが、指しこなすのはプロでも非常に難しく「藤井でないと藤井システムは指せない」と言われることもある。 |
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=== 藤井系統與千禧圍 === |
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藤井が初披露したのは、[[1995年]][[12月22日]]の対・[[井上慶太]]戦であり、47手の短手数で井上を投了に追い込んだ(中図は途中図)。しかし、すぐに有名になることはなく、1997年度の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で[[屋敷伸之]]が[[羽生善治]]に対して類似の形を指したときは、羽生が自玉のコビンを攻められ思うように居飛車穴熊に組めずに長考し(右図がその局面)、解説の[[田中寅彦]]もうなったが、ようやく指された羽生の次の一手は△3二玉と戻す手であった<ref>[[田中寅彦]](居飛車穴熊を得意としていた)は、「何か変だな」と何度もうなった。羽生の△3二玉を見て、司会・聞き手の[[藤森奈津子]]は思わず「あ!戻った!」と声を上げた。</ref>。 |
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|千禧圍駒組一例}} |
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面對藤井系統時,居飛車方很難組穴熊,許多對策也因應而生。其中之一便是西元2000年出現的千禧圍。雖然堅硬程度不及穴熊,但因為王將被圍在2一的位置,可以避開對手角行直射。 |
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一直以來振飛車方都是靠角道瓦解穴熊,包括近年開發的三間飛車[[中田功XP]]也是以角道威脅居飛車方王將,然而,千禧圍打從一開始就避開角道,多少削弱了這些系統的威脅。 |
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1998年、藤井はこの戦法を用いて[[谷川浩司]]から[[竜王戦|竜王]]位を奪取する。振り飛車は[[将棋界]]で息を吹き返し、さらには、ほかの振り飛車の戦法も指されるようになった。 |
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雖然千禧圍讓藤井系統面臨意外的困境,但因為手數更多,又不比穴熊堅固,可能在圍玉時反被振飛車方圍出穴熊,最後仍未成為對抗藤井系統的良方。因此這個圍玉在數年之間已完全絕跡。 |
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=== 藤井システムとミレニアム囲い === |
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藤井システムに対しては居飛車穴熊に組むのが難しいため、色々な対抗策が考えられた。そのひとつが2000年頃に現れた[[ミレニアム囲い]]である。堅さでは穴熊に及ばないものの、玉を(後手の)2一に囲うため、角筋の直射を受けないのが特徴である。 |
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今までの振り飛車は角道を頼りに穴熊を崩していた。近年に開発された[[三間飛車]]の[[中田功XP]]も、角道が居飛車穴熊の玉への脅威となっていた。しかし初めから角道の攻撃を避けるミレニアム囲いは、藤井システムの狙いに少なからず影響を与えた。 |
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因為藤井系統攻守兼備,居飛車方的理想對策是:不先確定要穴熊還是急戰,根據振飛車方藤井系統的動靜,決定要選擇哪種陣型。面對這個趨勢,振飛車方也開始保留▲6七銀和▲1五步(只下到▲7八銀和▲1六步),把接下來2手用作▲4八玉▲3九玉圍玉,因此身為藤井系統特徵的「把第1行步突出到底」和「居玉」都消失了,也因此有「藤井系統已經消失」的說法。再加上對藤井系統的研究已經深入許多,結論是後手藤井系統不利,對先手藤井系統也大多可以勢均力敵的戰鬥。<ref>後手藤井系統一事見勝又『最新戦法の話』p90 - 94,先手藤井系統一事則見同書p118。</ref>。從2004年起,職業棋士之間以居飛車對抗藤井系統的對局也越來越少,取而代之的是相振飛車的流行。 |
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藤井自身也仍然不斷在摸索,2008年時嘗試將[[矢倉]]投入相振飛車實戰當中,當時的《[[週刊将棋]]》上以「轉向矢倉黨」介紹了這個現象。<ref>『[[週刊将棋]]』2008年8月6日,p7。</ref>。雖然藤井自身也表現出藤井系統「形式上的退場」,但實際上他並未捨棄藤井系統,而是以「搞不好甚麼時候又會把它放進一軍喔」來看待。<ref>勝又『最新戦法の話』p116。</ref>。事實上,藤井在2012年時也各在先手與後手時下出藤井系統,在第53期王位戰挑戰者決定循環賽中,打敗高橋道雄和牧野光則,挑戰者決定戰則打敗渡邊明,取得了挑戰羽生王位的挑戰權。2014年5月12日的王位戰上,雖然終盤有些遲疑,藤井仍然擊破了使用居飛車穴熊的木村。也顯示了藤井雖然從A級陷落,仍然沒有怠慢將棋研究。 |
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ミレニアム囲いは藤井システムに対して新たな展開を見せたが、手数がかかる割には穴熊ほど堅くなく、組み上げる手間を逆用して振り飛車側が穴熊に組む対応を見せられ、藤井システムに対する完全な対抗策には至らなかった。こういった経緯から、この戦法は数年で全く指されなくなってしまった。 |
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藤井システムは、居飛車側が穴熊囲いでも急戦を仕掛けてきても、どちらにも対応できる戦法として猛威をふるった。居飛車側の対抗策としては、穴熊にするか急戦を目指すかの態度をぎりぎりまで決めず、振り飛車(藤井システム)側の動きによってどちらの駒組みにするかを決めるようになった。これに対し、振り飛車側も▲6七銀と▲1五歩を保留し(▲7八銀と▲1六歩で止める)、その2手を▲4八玉から▲3九玉と囲いにかけるようになる。このため駒組みの上では藤井システムの特徴であった「1筋の突き越し」「居玉」がなくなり「藤井システムは消えた」と言われるようにもなった。 |
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藤井システムに対する研究と改良が加わった結果、後手番での藤井システムは不利、先手番ではほぼ互角に戦えるであろう、とする結論に至っている<ref>後手番については勝又『最新戦法の話』90 - 94ページ、先手番については同書118ページ。</ref>。プロ間では2004年頃から、先手番の藤井システムに居飛車で対抗する将棋が減り、代わりに[[相振り飛車]]が流行するようになった。 |
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藤井自身も模索を続けており、2008年には[[矢倉囲い]]も実戦で試すようになった(ただし通常の矢倉の定跡手順ではなく、[[相振り飛車]]も視野に入れたものである)ため、当時の『[[週刊将棋]]』紙に「矢倉党に転向」と紹介されたこともあった<ref>『[[週刊将棋]]』2008年8月6日、7ページ。</ref>。藤井自身、藤井システムを「ファーム落ち」と表現しているが、藤井システムを捨てたわけではなく「いつ一軍で投げさせるか、わかりませんよ」としている<ref>勝又『最新戦法の話』116ページ。</ref>。事実、藤井は2012年に先手後手の双方で複数回藤井システムを指し、第53期[[王位戦]]では、挑戦者決定リーグで[[高橋道雄]]と[[牧野光則]]を、挑戦者決定戦では[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]を破って羽生王位への挑戦権を得た。2014年5月12日の王位戦で居飛車穴熊の木村を終盤もたつきはあったものの撃破。 |
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A級から陥落したものの、研究は怠っていないところを見せた。 |
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== 參考資料 == |
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* 『[[将棋世界]]』2006年3月 |
* 『[[将棋世界]]』2006年3月號「勝又教授的這樣就懂了! 最新戰法講義」藤井系統到底消失到哪裡去了?之巻 |
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* [[勝又清和]]『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8) |
* [[勝又清和]]『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8) |
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*: 『将棋世界』 |
*: 連載於『将棋世界』。關於藤井系統大約花了2章的份量解說(第3講 後手藤井システムの話(p57 - 94)、第4講 先手藤井システムの話(p95 - 118))。 |
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== 外部リンク == |
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[[Category:振 |
[[Category:振飛車]] |
2022年6月2日 (四) 11:35的最新版本
藤井系統(ふじいシステム),是日本將棋振飛車中四間飛車的一種戰法,由將棋棋士藤井猛發明。[1]其後,藤井猛也以此戰法獲得了1998年將棋大賞中的升田幸三賞。
概要
[编辑]是藤井猛發明的四間飛車戰法,特別是作為居飛車穴熊對策十分受到注目,而藤井猛自身也作為此戰法的第一人活躍於棋壇。
如後述所敘,藤井系統可分為左美濃對策的和穴熊對策的藤井系統。後者的特徵即是當對手以圍穴熊為目標時便在對手完成之前挑起戰事,若是放棄穴熊選擇急戰仍可以圍玉的堅硬程度位處優勢。比起特定棋子的動法,自陣全體攻守的陣型組織更是其特徵,因此不被稱為「戰法」而是「系統」。
一直以來當居飛車選擇持久戰時,都會選擇像是5筋位取、玉頭位取,甚至從船圍發展成矢倉等發展系的圍玉,然而當雙方互相攻擊時,特別是在橫向的防守顯得較為脆弱。然而當左美濃、居飛車穴熊開始發達起來,居飛車得到了與振飛車同等甚至更堅固的圍玉,振飛車的勝率開始極端的下降。特別是在頂尖棋士間此現象格外明顯,像是羽生善治、森内俊之、佐藤康光、渡辺明等下居飛車穴熊時,除了佐藤後手的情況是0.588,其他七種都具有七成以上的高勝率,尤其羽生先後手合計時勝率已超越九成。[2](一般先手的勝率只有比5成再高一點點而已)
因此,不僅要想出左美濃.居飛車穴熊的對策,其對策中也要包含對付居飛車一直以來右銀急戰的方法。以藤井系統來說:
- 對左美濃時,不讓對手組成理想形,以直接進入玉頭戰為目標。
- 對居飛車穴熊時,從一開始就不讓對手圍玉,或者,以在對手完成圍玉之前開戰為目標。其中包含了不圍玉(居玉)就攻擊想圍穴熊的對手、從振飛車轉換回居飛車、甚至如同雀刺戰法一般將勢力集中於端等種種戰鬥方式。。
小林健二九段的Super四間飛車和杉本昌隆七段的研究都成了日後藤井系統的基礎。[3]
變遷
[编辑]藤井系統廣為人知之前,振飛車方普遍對急戰沒有自信,而左美濃、居飛車穴熊等居飛車圍玉戰法在對抗振飛車時十分有效,這些圍玉不僅堅固程度不遜於振飛車的美濃,而且只要一進入持久戰,振飛車方就只有挨打的份,振飛車方對此一直缺乏對策,振飛車黨棋士也越來越少。青野照市引用森下卓的話如是說:「忙著研究矢倉都來不及了,對振飛車,穴熊和左美濃輪流用一用就好了。」[4]
身為振飛車黨,喜愛四間飛車的藤井猛發現,對左美濃戰中,振飛車方常出現銀冠。1995年全日本職業棋士將棋錦標賽(之後的朝日杯將棋選手權戰)藤井猛對行方尚史一戰中,他便嘗試在圍玉途中(2七銀.3九玉.4七金.4九金)把飛車移回右翼,殺向左美濃玉頭,這局被收錄在河口俊彥的《新對局日誌》中。此後,類似的構想也被林葉直子使用過[5]。雖然是藤井系統登場前的紀錄,攻擊左美濃玉頭的構想卻是共通的。
對左美濃的藤井系統
[编辑]左美濃──特別是天守閣美濃──的特殊布局過去對振飛車黨來說特別難以攻略,而藤井系統最初就是對抗左美濃時發明的。
飛車突破防線後,雖然是進入橫向攻擊,但相較於振飛車方在第一、二段的王將,居飛車方的王將在第三段,這使側面攻擊需要花費更多手數,成為振飛車方大多敗北的原因。因此,藤井系統判定,不應該從側面攻擊天守閣美濃,反而應該縱向狙擊其弱點:玉頭。
把王將置於3九(7一),把步兵推到4五(6五),不讓對手組出理想的高美濃,接著,依序推進2六步(8四步)、2五步(8五步)以攻擊玉頭。然而,過早推進這枚步兵的話,會被對手以5三角(5七角)狙擊,因此在使用時必須十分周到。島朗就曾在NHK杯對上後手藤井系統時,使用▲5七角狙擊,然後開始硬組高美濃,在殺破藤井系統使用方桂頭後獲勝。常見的局面是突出5六步(5四步),轉換成三間飛車,之後把角行拉下到6八(4二)直指玉頭,並與桂馬一同攻擊。單單▲2五步△同歩▲同桂就已經是很凶狠的手段了,而當對手角行不在3一(7九)時,對手若不把銀將拉下至2二(8八)(因為有▲2四步),便會留有直通的角道,因此居飛車方必須隨時提心吊膽。
因為這是非常完備的戰法,在職業棋士對局中左美濃已經不再出現了。
對穴熊的藤井系統
[编辑]現今的藤井系統中,主流變化是為對付居飛車穴熊而做的新研究。在居飛車穴熊完成前,以角道縱向攻擊為主軸,並兼備應付居飛車方急戰的對策。藤井猛發現,雖然花兩手突出1五步(9五步)在急戰中常被認為浪費手數,但在終盤時,因為己方圍玉比敵方寬廣,端筋(最旁邊的直行)空出了逃生通道,因此作戰餘地大幅增加。突出端筋步兵後,不圍玉,直接開始攻擊。當居飛車方走1二香(9八香)企圖圍玉時,己方便以2五桂(8五桂)6五步(4五步)開角道攻擊。後手急攻的話,就走4八玉(6二玉)3九玉(7一玉)向美濃演化。
因為陣型非常有特色,模仿並不那麼容易,即使是職業棋士也很難運用自如,因此有道是「不是藤井就下不好藤井系統」。
此系統在1995年12月22日藤井猛對井上慶太戰問世,47手後,對手井上便投降了。但藤井系統並沒有馬上成名,1997年NHK杯戰中,屋敷伸之對羽生善治下出類似棋形時,羽生感覺己方王將似乎遭到斜線攻擊,因而陷入長考是否要組居飛車穴熊,當時解說的田中寅彥也不斷發出驚嘆,結果羽生在下一手走△3二玉移回王將。
1998年,藤井以這個戰法從谷川浩司手中奪取龍王寶座,振飛車因而復活重新席捲將棋界,其後的頭銜戰中也開始出現其他的振飛車戰法。
藤井系統與千禧圍
[编辑]面對藤井系統時,居飛車方很難組穴熊,許多對策也因應而生。其中之一便是西元2000年出現的千禧圍。雖然堅硬程度不及穴熊,但因為王將被圍在2一的位置,可以避開對手角行直射。
一直以來振飛車方都是靠角道瓦解穴熊,包括近年開發的三間飛車中田功XP也是以角道威脅居飛車方王將,然而,千禧圍打從一開始就避開角道,多少削弱了這些系統的威脅。
雖然千禧圍讓藤井系統面臨意外的困境,但因為手數更多,又不比穴熊堅固,可能在圍玉時反被振飛車方圍出穴熊,最後仍未成為對抗藤井系統的良方。因此這個圍玉在數年之間已完全絕跡。
新的對策與藤井系統的進化
[编辑]因為藤井系統攻守兼備,居飛車方的理想對策是:不先確定要穴熊還是急戰,根據振飛車方藤井系統的動靜,決定要選擇哪種陣型。面對這個趨勢,振飛車方也開始保留▲6七銀和▲1五步(只下到▲7八銀和▲1六步),把接下來2手用作▲4八玉▲3九玉圍玉,因此身為藤井系統特徵的「把第1行步突出到底」和「居玉」都消失了,也因此有「藤井系統已經消失」的說法。再加上對藤井系統的研究已經深入許多,結論是後手藤井系統不利,對先手藤井系統也大多可以勢均力敵的戰鬥。[6]。從2004年起,職業棋士之間以居飛車對抗藤井系統的對局也越來越少,取而代之的是相振飛車的流行。
藤井自身也仍然不斷在摸索,2008年時嘗試將矢倉投入相振飛車實戰當中,當時的《週刊将棋》上以「轉向矢倉黨」介紹了這個現象。[7]。雖然藤井自身也表現出藤井系統「形式上的退場」,但實際上他並未捨棄藤井系統,而是以「搞不好甚麼時候又會把它放進一軍喔」來看待。[8]。事實上,藤井在2012年時也各在先手與後手時下出藤井系統,在第53期王位戰挑戰者決定循環賽中,打敗高橋道雄和牧野光則,挑戰者決定戰則打敗渡邊明,取得了挑戰羽生王位的挑戰權。2014年5月12日的王位戰上,雖然終盤有些遲疑,藤井仍然擊破了使用居飛車穴熊的木村。也顯示了藤井雖然從A級陷落,仍然沒有怠慢將棋研究。
註釋
[编辑]- ^ 藤井在1998年度的NHK將棋講座中解說本戰法,隨後便於龍王戰直落四從谷川浩司手中奪取頭銜。
- ^ 勝又清和『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)、p108。一直到2006年春的數據。
- ^ 例如『将棋世界』2014年11月號中『我是這樣變強的』第2回—藤井猛九段之卷p75~76中藤井這樣講到:「第3圖。當我還是三段的時候看到杉本先生的將棋時想像的局面,如果這時候跳起▲2五桂的話會如何呢?平成4年9月,銀河戰中我在對手的神崎健二五段身上是了一下。(中略)如同當時的手順進行至第4圖結果先手優勢。當時看到▲2五桂這手,解説者的中村修九段也『ㄟ—!』的叫了出來,對當時來說是嶄新的下法。試著下了一下卻了解到實際上非常難下,雖然之後都沒有再下過這一手,然而卻成為足以稱為藤井系統原型的一局。」
- ^ 『将棋世界』2007年9月號、「新手魂」p23。節自青野照市・勝又清和・上野裕和的對談。
- ^ 河口俊彦『新対局日誌 第八集 七冠狂騒曲(下)』(河出書房、2002年、ISBN 4-309-61438-8)、p12 - 15。
- ^ 後手藤井系統一事見勝又『最新戦法の話』p90 - 94,先手藤井系統一事則見同書p118。
- ^ 『週刊将棋』2008年8月6日,p7。
- ^ 勝又『最新戦法の話』p116。
參考資料
[编辑]- 『将棋世界』2006年3月號「勝又教授的這樣就懂了! 最新戰法講義」藤井系統到底消失到哪裡去了?之巻
- 勝又清和『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)
- 連載於『将棋世界』。關於藤井系統大約花了2章的份量解說(第3講 後手藤井システムの話(p57 - 94)、第4講 先手藤井システムの話(p95 - 118))。