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日琉同祖論:修订间差异

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'''日琉同祖論'''指[[日本人]]與[[琉球人]](沖繩人)的起源是來自同一種族的一种论调。
'''日琉同祖論'''(にちりゅうどうそろん)は、[[日本人]]と[[琉球]](沖縄)人は、その起源において民族的には同一であるとする説。日琉同祖論は、歴史的には[[17世紀]]に摂政・[[羽地朝秀]]が著した『[[中山世鑑]]』にまでさかのぼり、[[明治]]以降は沖縄学の大家・[[伊波普猷]]によって詳細に展開された。


== 概要 ==
== 概要 ==
=== 羽地朝秀の日琉同祖論 ===
=== 向象賢的日琉同祖論 ===
[[向象賢]](羽地按司朝秀)1650年编撰《[[中山世鑑]]》和《[[中山世譜]]》中記載,日本[[源為朝]]的兒子是[[琉球國]][[舜天王朝]]建立者, 1187年至1237年在位。
羽地朝秀は、[[1650年]]、琉球最初の正史である『中山世鑑』を著し、この中で羽地は琉球最初の王・[[舜天]]は、[[源為朝]]の子であり、琉球は[[清和源氏]]の後裔によって開かれたと述べているが、この源為朝来琉説が、日琉同祖論の起源である。舜天が実在の王か否かについては議論があるが、舜天の名自体は、『中山世鑑』より100年以上前の[[1522年]]に建てられた「国王頌徳碑」に刻まれている。碑文は、琉球の僧で[[円覚寺 (那覇市)|円覚寺]]第六代住持・仙岩が撰んだもので、そこには「舜天、[[英祖 (琉球国王)|英祖]]、[[察度]]三代以後、其の世の主は遷化すと雖も同行を用いず……」とあり、舜天は16世紀初頭には琉球最初の王であると見なされていたことが分かる。


根據《[[中山世鑑]]》記載,他是。[[保元之亂]]後,[[源為朝]]被[[流放]][[伊豆國]],因遇大風漂流至[[沖繩本島]],並與當地豪族[[南城市|大里]][[按司]]的妹妹結婚,生子尊敦(即後來的[[舜天]])。尊敦15歲時即成為[[浦添]][[按司]]。
源為朝の来琉説は、『[[保元物語]]』の記述を根拠にしていると考えられているが、その起源は羽地朝秀以前にすでに大和(日本)から来琉した僧たちによって唱えられていたと言われている。


1186年,[[天孫王朝]]第25代(末代)國王為重臣[[利勇]]所弒,琉球國大亂。舜天出兵平叛,誅滅利勇。因天孫王朝末代王無子,22歲的舜天遂於次年被群臣擁立為王。
また羽地朝秀は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」。</ref>。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘<ref>朝日新聞 2010年4月16日</ref>するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。


舜天王事跡無從考證,又據有[[神話]]色彩,因此有些[[沖繩學]]學者對其真實性提出質疑。《[[保元物語]]》並中沒有關於源為朝渡琉的記載,有些學者據此認為源為朝根本就沒有漂泊至琉球的經歷,因此舜天王為源為朝之子係後世附會。<ref>《新稿·沖繩的歷史》,[[比嘉春潮]]著,三一書房,1970年出版,第62頁、60頁。</ref>甚至有學者認為舜天王本人就是一個杜撰的人物,琉球第一個國王「不是舜天,而是[[英祖 (琉球國王)|英祖]]」<ref name=history>《琉球的歷史》,[[宮城榮昌]]著,第33頁至35頁</ref>。
こうした羽地の日琉同祖論は、王国末期の政治家・宜湾朝保([[三司官]])に影響を与えた。宜湾は未定稿ながら琉球語彙を編纂して、記紀、[[万葉集]]などの上代日本語と[[琉球方言]]を比較して、両者に共通点があると説いた<ref>同上。</ref>。
琉球國末期政治家、[[歌人]][[向有恆]](宜灣親方朝保、[[三司官]])是[[親日派]]的代表人物之一,支持「日琉同祖論」,他认为[[万葉集]]中的上代日本語与[[琉球方言]]兩者有很多共通点<ref name=history />。


==参考文献==
=== 江戸時代の日本における日琉同祖論 ===
{{Reflist}}
一方日本でも、[[江戸時代]]から日琉同祖論が唱えられていた。[[新井白石]]はその著『南島誌』([[1719年]])の総序において、『[[山海経]]』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している<ref>同上7頁参照。ただし『山南経』の該当箇所の「北倭」「南倭」読み方については、今日別の説も存在する。</ref>。


==外部連結==
また[[藤貞幹]]はその著『衝口発』([[1781年]])において、[[神武天皇]]は沖縄の「恵平也(いへや)島」([[伊平屋島]])に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、[[クマヤー洞窟]])という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。[[本居宣長]]はこの説に激怒し、その著『鉗狂人』([[1785年]])でこれに徹底的に論駁している。
*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263122 石田正治 統合の言説としての日琉同祖論 Discourse of Integration : Consanguinity of Japan and Ryukyu 法政研究 61(3-4上巻), 725-762, 1995-03-20 九州大学] {{Wayback|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263122 |date=20160304134951 }}
*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263460 石田正治 日琉同祖と沖縄人の個性(一) Consanguinity and Okinawas' Uniqueness 法政研究 70(3), 511-535, 2003-12-18 九州大学]
*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263491 石田正治 日琉同祖と沖縄人の個性(二) Consanguinity and Okinawans' Uniqueness (2) 法政研究 71(1), 1-50, 2004-07-15 九州大学] {{Wayback|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263491 |date=20160304195023 }}
*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006946259 三笘利幸 伊波普猷の「日琉同祖論」をめぐって: 初期の思想形成と変化を追う試み(1) Ifa Fuyu's 'Nichiryudosoron' : an Article about his early thought and change (1) 社会文化研究所紀要 62, 47-72, 2008-09九州国際大学] {{Wayback|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006946259 |date=20160809114639 }}


== 脚注 ==
==参见==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>

== 関連項目 ==
*[[皇民化政策]]
*[[皇民化政策]]
*[[八紘一宇]]
*[[八紘一宇]]
*[[日韩同祖论]]
*[[日韩同祖论]]
*[[日猶同祖論]]


[[Category:沖繩縣歷史]]
== 外部リンク ==
[[Category:琉球]]
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263122 石田正治 統合の言説としての日琉同祖論 Discourse of Integration : Consanguinity of Japan and Ryukyu 法政研究 61(3-4上巻), 725-762, 1995-03-20 九州大学]
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263460 石田正治 日琉同祖と沖縄人の個性(一) Consanguinity and Okinawas' Uniqueness 法政研究 70(3), 511-535, 2003-12-18 九州大学]
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263491 石田正治 日琉同祖と沖縄人の個性(二) Consanguinity and Okinawans' Uniqueness (2) 法政研究 71(1), 1-50, 2004-07-15 九州大学]
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006946259 三笘利幸 伊波普猷の「日琉同祖論」をめぐって: 初期の思想形成と変化を追う試み(1) Ifa Fuyu's 'Nichiryudosoron' : an Article about his early thought and change (1) 社会文化研究所紀要 62, 47-72, 2008-09九州国際大学]


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[[Category:琉球王国]]
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2022年5月5日 (四) 08:10的最新版本

日語寫法
日語原文日琉同祖論
假名にちりゅうどうそろん
平文式罗马字Nichiryū dōsoron

日琉同祖論日本人琉球人(沖繩人)的起源是來自同一種族的一种论调。

概要

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向象賢的日琉同祖論

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向象賢(羽地按司朝秀)1650年编撰《中山世鑑》和《中山世譜》中記載,日本源為朝的兒子是琉球國舜天王朝建立者, 1187年至1237年在位。

根據《中山世鑑》記載,他是。保元之亂後,源為朝流放伊豆國,因遇大風漂流至沖繩本島,並與當地豪族大里按司的妹妹結婚,生子尊敦(即後來的舜天)。尊敦15歲時即成為浦添按司

1186年,天孫王朝第25代(末代)國王為重臣利勇所弒,琉球國大亂。舜天出兵平叛,誅滅利勇。因天孫王朝末代王無子,22歲的舜天遂於次年被群臣擁立為王。

舜天王事跡無從考證,又據有神話色彩,因此有些沖繩學學者對其真實性提出質疑。《保元物語》並中沒有關於源為朝渡琉的記載,有些學者據此認為源為朝根本就沒有漂泊至琉球的經歷,因此舜天王為源為朝之子係後世附會。[1]甚至有學者認為舜天王本人就是一個杜撰的人物,琉球第一個國王「不是舜天,而是英祖[2]

琉球國末期政治家、歌人向有恆(宜灣親方朝保、三司官)是親日派的代表人物之一,支持「日琉同祖論」,他认为万葉集中的上代日本語与琉球方言兩者有很多共通点[2]

参考文献

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  1. ^ 《新稿·沖繩的歷史》,比嘉春潮著,三一書房,1970年出版,第62頁、60頁。
  2. ^ 2.0 2.1 《琉球的歷史》,宮城榮昌著,第33頁至35頁

外部連結

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参见

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