跳转到内容

吉川元春

维基百科,自由的百科全书

这是本页的一个历史版本,由Terryhsu留言 | 贡献2006年10月30日 (一) 10:08编辑。这可能和当前版本存在着巨大的差异。

(差异) ←上一修订 | 最后版本 (差异) | 下一修订→ (差异)
日語寫法
日語原文吉川 元春
假名きっかわ もとはる
平文式罗马字Kikkawa Motoharu

吉川元春,出生於享祿3年(1530年),卒於天正14年(陰曆)11月15日(1586年12月25日))、是日本戰國時代的武將。西國霸主毛利元就的次男。官至治部少輔・駿河守、從四位下。幼名為少輔次郎。

正式姓名為藤原元春(ふじわら・の・もとはる,羅馬拼音: Fujiwara no Motoharu)。過繼之前為大江元春(おおえ・の・もとはる,羅馬拼音:Ooe no Motoharu)。

家系

元春本身是本為大江姓分系毛利氏的領主毛利元就之次男。母親為來自藤姓吉川氏吉川國經的女兒、因為這個關係他在1550年送與當時已隱居的吉川興経當作養子,繼承吉川家。

吉川氏是藤原南家的支系、曾經在鎌倉幕府時代擔任御家人、世襲於駿河國,之後因屢歷戰功而得以分封至安藝國。

出生至結婚

1530年年他出生在吉田郡山城、幼名少輔次郎。1540年年於「吉田郡山城之戰」時、雖未成年但已著軍服參加初陣。

1543年行成年禮,取名元春。元春之名來自於毛利氏的先祖毛利元春

1547年年依照他自己的意思娶了熊谷信直女兒。這名女子的個性較為豪邁而相貌不佳。傳說這是毛利氏為了拉攏勇猛的熊谷信直之勢力所進行的政略性婚禮。元春與她生有吉川元長吉川廣家毛利元氏。 不過,熊谷信直嫁與武田光和的妹妹卻據稱是絶世美女(有一說是因其妹之後和(安藝)武田氏離婚而造成熊谷氏離開武田氏而投向毛利家)、姑與姪女之間的相貌竟這麼天差地別也因此令後人深感疑問。
有人說這與「諸葛亮娶黄夫人有異曲同工之妙。

繼承吉川氏

1550年、元春在父親毛利元就的謀略下繼承了生母的娘家吉川氏。吉川氏當時的共主吉川興経被迫隱居,之後其子千法師等人亦遭殺害。

進駐吉川氏據點:安芸國大朝的小倉山城後,吉川元春在要害地點興築了日野山城,並將居所遷移至此。與其弟小早川隆景並稱『毛利的兩川』、負責山陰地方的政治及軍事重責。
1555年的「嚴島之戰」、吉川率軍與小早川軍協力,毛利氏得以消滅陶隆房率領的大内軍。

攻略月山富田城與山中鹿介之對決

1556年他開始遠征石見國、與尼子氏有多次的戰鬥。1565年的「月山富田城之戰」中他負責擔任主力進攻、終於使尼子氏降伏。之後並與試圖再興尼子氏的山中幸盛數度對決、吉川軍獲得壓倒性的勝利。1571年年他捕獲山中幸盛但被其逃走。從此尼子殘黨逃到京都尋求織田信長的援助。
元就死後、他與隆景共同扶佐姪子毛利輝元繼位。並開始與羽柴秀吉率領的中國地方遠征軍作戰。 1578年的「上月城之戰」以二萬三千人的主力攻陷上月城,尼子勝久降伏後自殺,山中幸盛被殺,尼子殘黨滅絕。

與秀吉的對決

上月城之戰時他擊退了羽柴秀吉率領的織田軍、因幡国鳥取城で一族の吉川経家が自刃するなど、戦略的退勢は覆すことはできず、毛利氏の前線は後退していった。
1582年、「備中高松城の戦い」で吉川元春は羽柴秀吉率いる織田軍と対陣していた。同年6月5日に京都で本能寺の変が発生、織田信長が殺害される事態となった。羽柴秀吉は毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊を通じて「本能寺の変」を毛利側に知らせずに備中から撤退を開始。本能寺の変を知った毛利軍は「秀吉に騙された」と激怒し、元春は羽柴軍を追撃して殲滅するべきだと主張したが、弟の隆景が反対したため、容れられなかったと言われている。
同年、秀吉に仕えることを嫌って嫡男の元長に家督を譲って隠居した。 毛利氏は秀吉の天下取りへ協力し、1585年、弟の小早川隆景は積極的に「秀吉の四国征伐」に参加したが、吉川軍は元春の息子である吉川元長が大将として出陣している。
これらの事から、秀吉は吉川元春が自分を嫌っている事を知り、強い圧力を掛けてくるようになる。
1586年、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景らの説得により、隠居の身でありながら渋々九州征伐に参加した。この時元春は膿性炎症(癌とも言われている)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城で死去した(一説には、黒田如水が差し出した鮭料理を、病に悪いと知りながら食べてしまったため、病状が悪化して死去したと言われている)。

元春一生的戰績累記七十六戰六十四勝十二次平手、是個不敗的猛將、另外他在討伐尼子氏時於軍中著有『太平記』四十卷,為流傳至今的『吉川本』太平記,被後世評論為智勇雙全的名將。 [[Category:日本戰國武將|K]