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吉川元春

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日语写法
日语原文吉川 元春
假名きっかわ もとはる
平文式罗马字Kikkawa Motoharu

吉川元春,出生于享禄3年(1530年),卒于天正14年(阴历)11月15日(1586年12月25日))、是日本战国时代的武将。西国霸主毛利元就的次男。官至治部少辅・骏河守、从四位下。幼名为少辅次郎。

正式姓名为藤原元春(ふじわら・の・もとはる,罗马拼音: Fujiwara no Motoharu)。过继之前为大江元春(おおえ・の・もとはる,罗马拼音:Ooe no Motoharu)。

家系

元春本身是本为大江姓分系毛利氏的领主毛利元就之次男。母亲为来自藤姓吉川氏吉川国经的女儿、因为这个关系他在1550年送与当时已隐居的吉川兴経当作养子,继承吉川家。

吉川氏是藤原南家的支系、曾经在镰仓幕府时代担任御家人、世袭于骏河国,之后因屡历战功而得以分封至安艺国。

出生至结婚

1530年年他出生在吉田郡山城、幼名少辅次郎。1540年年于“吉田郡山城之战”时、虽未成年但已著军服参加初阵。

1543年行成年礼,取名元春。元春之名来自于毛利氏的先祖毛利元春

1547年年依照他自己的意思娶了熊谷信直女儿。这名女子的个性较为豪迈而相貌不佳。传说这是毛利氏为了拉拢勇猛的熊谷信直之势力所进行的政略性婚礼。元春与她生有吉川元长吉川广家毛利元氏。 不过,熊谷信直嫁与武田光和的妹妹却据称是绝世美女(有一说是因其妹之后和(安艺)武田氏离婚而造成熊谷氏离开武田氏而投向毛利家)、姑与侄女之间的相貌竟这么天差地别也因此令后人深感疑问。
有人说这与“诸葛亮娶黄夫人有异曲同工之妙。

继承吉川氏

1550年、元春在父亲毛利元就的谋略下继承了生母的娘家吉川氏。吉川氏当时的共主吉川兴経被迫隐居,之后其子千法师等人亦遭杀害。

进驻吉川氏据点:安芸国大朝的小仓山城后,吉川元春在要害地点兴筑了日野山城,并将居所迁移至此。与其弟小早川隆景并称‘毛利的两川’、负责山阴地方的政治及军事重责。
1555年的“严岛之战”、吉川率军与小早川军协力,毛利氏得以消灭陶隆房率领的大内军。

攻略月山富田城与山中鹿介之对决

1556年他开始远征石见国、与尼子氏有多次的战斗。1565年的“月山富田城之战”中他负责担任主力进攻、终于使尼子氏降伏。之后并与试图再兴尼子氏的山中幸盛数度对决、吉川军获得压倒性的胜利。1571年年他捕获山中幸盛但被其逃走。从此尼子残党逃到京都寻求织田信长的援助。
元就死后、他与隆景共同扶佐侄子毛利辉元继位。并开始与羽柴秀吉率领的中国地方远征军作战。 1578年的“上月城之战”以二万三千人的主力攻陷上月城,尼子胜久降伏后自杀,山中幸盛被杀,尼子残党灭绝。

与秀吉的对决

上月城之战时他击退了羽柴秀吉率领的织田军、因幡国鸟取城で一族の吉川経家が自刃するなど、戦略的退势は覆すことはできず、毛利氏の前线は后退していった。
1582年、“备中高松城の戦い”で吉川元春は羽柴秀吉率いる织田军と対阵していた。同年6月5日に京都で本能寺の変が発生、织田信长が杀害される事态となった。羽柴秀吉は毛利氏の外交僧・安国寺恵琼を通じて“本能寺の変”を毛利侧に知らせずに备中から撤退を开始。本能寺の変を知った毛利军は“秀吉に骗された”と激怒し、元春は羽柴军を追撃して歼灭するべきだと主张したが、弟の隆景が反対したため、容れられなかったと言われている。
同年、秀吉に仕えることを嫌って嫡男の元长に家督を譲って隠居した。 毛利氏は秀吉の天下取りへ协力し、1585年、弟の小早川隆景は积极的に“秀吉の四国征伐”に参加したが、吉川军は元春の息子である吉川元长が大将として出阵している。
これらの事から、秀吉は吉川元春が自分を嫌っている事を知り、强い圧力を挂けてくるようになる。
1586年、天下人への道を突き进む豊臣秀吉の强い要请を受け、弟の隆景らの说得により、隠居の身でありながら渋々九州征伐に参加した。この时元春は脓性炎症(癌とも言われている)に身体を蚀まれていた。そのため、出征先の豊前小仓城で死去した(一说には、黒田如水が差し出した鲑料理を、病に悪いと知りながら食べてしまったため、病状が悪化して死去したと言われている)。

元春一生的战绩累记七十六战六十四胜十二次平手、是个不败的猛将、另外他在讨伐尼子氏时于军中著有‘太平记’四十卷,为流传至今的‘吉川本’太平记,被后世评论为智勇双全的名将。 [[Category:日本战国武将|K]