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准大臣

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日語寫法
日語原文准大臣
假名じゅんだいじん
平文式罗马字zyundaizin
儀同三司」初代准大臣藤原伊周

准大臣,是日本律令制下,朝廷給予朝廷中部分三位以上有功公卿的一項榮譽頭銜和相應的大臣待遇,而該頭銜在朝堂上的席位位列「大納言以上、大臣以下」。唐名稱之為儀同三司。被授予者會被稱呼為「准大臣宣下」。但日本南北朝時代後,律令官制普遍地「名譽化」,准大臣的身分也悄然變化,被視作正式官職,因為此時,律令官制管理全國各項事務的實際功能,已經被幕府所設立的各級武士官僚所取代。[1]

日本歷史上首次出現「准大臣」頭銜的是在平安時代中期,一條天皇寬弘二年(1005年)2月25日時,從二位太宰權帥藤原伊周被授予了位列大臣之下大納言之上,參與朝政的地位。隨後在寬弘五年(1008年),正式授予「准大臣」頭銜,並給予職封1000戶的俸祿,伊周將自己所受到的准大臣待遇描述為相當東漢以後歷代中國朝廷給予朝廷重臣「儀同三司」頭銜一般。[2]

介紹

准大臣即日本從11世紀初期開始,給予朝廷中部分三位以上有功公卿,一項榮譽頭銜和相應的大臣待遇,可以享有介於大納言和大臣之間的地位和席次。因為自從日本進入武家的鐮倉時代1185年1333年)開始,五攝家清華家等上層貴族家族都已經成型。而朝廷上的大臣職位就算加上身為令外官的內大臣,也不過只有4個大臣可以同時在職,且太政大臣一職還是非常設職位。故大臣的位置自鐮倉時代起便固定由五攝家和清華家的歷代嫡子上輪流擔任大臣的位置,並沒有多餘的大臣位置可以分配給其餘公家貴族。[3][4]

因此,「准大臣」一職便很好地的成為那些已經成為大納言的公卿,卻沒有辦法晉升到內大臣的官員的一種替代品,雖說並非是正式設立的官職,但仍具有高於原有官職的地位和席次,並且也可以享有類似大臣的俸祿。如初代准大臣藤原伊周便被賞賜略高於內大臣職封800戶的1000戶俸祿。但此時大家還是普遍將准大臣視作名譽頭銜。[3]

時光流逝,到了日本南北朝時代時(1331年1392年),日本的律令官制實際上已經逐漸失去其原本的管理權力,官職逐漸名譽頭銜化,此時因為所有官職都被視作名譽銜,因此准大臣這個名譽職位也被視作與律令官職相等的地位。因此在而後的時代,准大臣便成為大臣家羽林家名家這些中等公家裡部分家族的極官。[3]

歷代准大臣

該列表裡、在明治4年以前的年月日乃是採取日本的舊暦薨去那格子裡,括弧内的數字是表達享年多少歲。而過世後才追封准大臣的贈官者添加於該表的最下面。

准大臣 家格 成為准大臣時的官位 成為准大臣後的經歷 在任時間 成為准大臣時的天皇 備考
ふじわらの これちか
藤原 伊周
攝家 從二位
前大宰權帥
寛弘5年1008年1月16日 准大臣宣下
  • 寛弘7年1010年1月28日 薨去 (37)
2年 一条天皇
ほりかわ もととも
堀川 基具
清華家 從一位
前大納言
弘安7年1284年3月1日 准大臣宣下
5年6個月 後宇多天皇
つちみかど さだざね
土御門 定實
清華家 從一位
前大納言
正應5年1292年8月14日 准大臣宣下
  • 永仁4年1296年12月27日 任内大臣
  • 永仁5年1297年10月16日 止内大臣
  • 正安3年1301年6月2日 任太政大臣
  • 正安4年1302年7月 辭太政大臣、出家
  • 嘉元4年1306年3月30日 薨去 (66)
4年5個月 伏見天皇
  • 淳和獎學兩院別當
なかのいん みちより
中院 通頼
大臣家 從一位
前權大納言
永仁5年1297年10月16日 准大臣宣下
7年 伏見天皇
  • 獎學院別當
いちじょう さねいえ
一條 實家
攝家庶子 從一位
前權大納言
嘉元3年1305年12月8日 准大臣宣下
  • 嘉元3年(1305年)閏12月21日 任内大臣
  • 嘉元4年1306年12月6日 任太政大臣
  • 延慶2年1309年10月15日 辭太政大臣
  • 正和3年1314年5月28日 薨去 (65)
1個半月 後二條天皇
このえ かねのり
近衛 兼教
攝家庶子 従一位
前權大納言
延慶3年1310年4月28日 准大臣宣下
約13年? 花園天皇
きたばたけ ちかふさ
北畠 親房
清華家 入道 正二位
前大納言
元弘2年1332年[5]? 准大臣宣下
約19年? 後醍醐天皇
  • 淳和獎學兩院別當
  • 出家後授予准大臣宣下
よしだ さだふさ
吉田 定房
名家 從一位
前權大納言
建武元年1334年6月26日 准大臣宣下
  • 建武元年(1334年)9月9日 任内大臣
  • 建武2年1335年2月26日 辭内大臣
  • 延元3年1338年1月23日 薨去 (65)
2個半月 後醍醐天皇
なかのいん ともみつ
中院 具光[6]
羽林家 從一位
前權大納言?
准大臣宣下日不詳
不詳 長慶天皇
  • 南朝授予的准大臣宣下
  • 出家後授予准大臣宣下
  • 中院義定とするのは誤り
かでのこうじ かねつな
勘解由小路 兼綱
(廣橋 兼綱)
名家 從一位
前權大納言
永德元年1381年9月4日 准大臣宣下

  • 翌日出家
  • 永德元年(1381年)9月26日 薨去 (67)
2日 後圓融天皇
  • 北朝授予的准大臣宣下
さんじょう さねとし
三条 實音
(正親町三条 實音)
大臣家 従一位
大宰権帥
前権大納言
永徳2年1382年4月8日 准大臣宣下
3年10個月 後圓融天皇
  • 北朝による宣下
までのこうじ なかふさ
萬里小路 仲房
名家 從一位
前權大納言
永德2年1382年4月19日 准大臣宣下
4年2個月 後小松天皇
  • 北朝授予的准大臣宣下
よつつじ よしなり
四辻 善成
賜姓王氏 從一位
前權大納言
嘉慶元年1387年12月8日 准大臣宣下
  • 明德5年1394年6月5日 任内大臣
  • 應永元年(1394年)12月25日 辭内大臣
  • 應永2年1395年7月20日 任左大臣
  • 應永2年(1395年)8月29日 辭左大臣、出家
  • 應永9年1402年9月3日 薨去 (77)
6年6個月 後小松天皇
ひろはし かねのぶ
廣橋 兼宣
名家 從一位
前大納言
應永32年1425年4月27日 准大臣宣下

1日 稱光天皇
ひの すけのり
日野 資教
名家 入道 從一位
前權大納言
應永32年1425年4月27日 准大臣宣下
3年 稱光天皇
  • 出家後授予准大臣宣下
ひのにし すけくに
日野西 資國
名家 入道 正三位
前權大納言
應永35年1425年3月25日准大臣宣下

  • 同日薨去 (64)
1日 稱光天皇
  • 出家後授予准大臣宣下
なかのいん みちあつ
中院 通淳
大臣家 從一位
前權大納言
寶德3年1451年11月19日 准大臣宣下
  • 寶德3年(1451年)11月24日 出家
  • 寶德3年(1451年)11月28日 薨去 (54)
6日 後花園天皇
  • 淳和院別當
からすまる すけとう
烏丸 資任
名家 從一位
前權大納言
長祿3年1459年3月12日 准大臣宣下
8年6個月 後花園天皇
までのこうじ ふゆふさ
萬里小路 冬房
名家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
應仁元年1467年9月20日 准大臣宣下
  • 應仁元年(1467年)10月5日 出家
  • 文明7年1475年11月22日 捨身 (53)
半月 後土御門天皇
ひろはし つなみつ
廣橋 綱光
名家 從一位
前權大納言
文明9年1477年閏1月5日 准大臣宣下
  • 文明9年(1477年)2月14日 薨去 (47)
1個半月 後土御門天皇
かじゅうじ のりひで
勸修寺 教秀
名家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言

明應5年1496年6月5日 准大臣宣下


  • 明應5年(1496年)6月7日 出家
  • 明應5年(1496年)7月11日 薨去 (71)
3日 後土御門天皇
  • 後土御門天皇的舅舅[8]
まつのき むねつな
松木 宗綱
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
永正15年1518年8月24日 准大臣宣下
  • 永正15年(1518年)8月30日 出家
  • 大永5年1525年8月2日 薨去 (81)
7日 後柏原天皇
ひろはし もりみつ
廣橋 守光
名家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
大永6年1526年4月1日 准大臣宣下

  • 同日薨去 (56)
1日 後柏原天皇
かじゅうじ ただとよ
勸修寺 尹豊
名家 從一位[9]
前權大納言
元龜3年1572年1月30日[10] 准大臣宣下
  • 元龜3年(1572年)閏1月6日 任内大臣
  • 元龜3年(1572年)2月3日 出家
  • 文祿3年1594年2月1日 薨去 (92)
7日 正親町天皇
なかやま たかちか
中山 孝親
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言

天正6年1578年1月13日 准大臣宣下


  • 天正6年(1578年)1月16日 薨去 (67)
4日 正親町天皇
からすまる みつやす
烏丸 光康
名家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
天正7年1579年4月27日 准大臣宣下

  • 同日薨去 (67)
1日 正親町天皇
かじゅうじ はるとよ
勸修寺 晴豊
名家 從一位
權大納言
慶長6年1601年1月11日 准大臣宣下
  • 慶長7年1602年12月8日 薨去 (60)
1年11個月 後陽成天皇
  • 後陽成天皇的外伯父
からすまる みつのぶ
烏丸 光宣
名家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
慶長16年1611年11月17日 准大臣宣下
  • 慶長16年(1611年)11月21日 薨去 (63)
5日 後水尾天皇
ひろはし かねかた
廣橋 兼賢
名家 從一位
前權大納言
寬文元年1661年12月24日 准大臣宣下
  • 寛文9年1669年5月26日 薨去 (75)
7年5個月 後西天皇
その もとよし
園 基福
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
貞享3年1686年5月16日 准大臣宣下
13年6個月 靈元天皇
  • 靈元天皇的外伯父
まつのき むねあき
松木 宗顯
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
正徳5年1715年12月28日 准大臣宣下
10年10個月 中御門天皇
なかやま かねちか
中山 兼親
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
享保19年1734年10月24日 准大臣宣下
  • 翌日薨去 (50)
2日 中御門天皇
むしゃのこうじ さねかげ
武者小路 實陰
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
元文3年1738年9月26日 准大臣宣下
  • 元文3年(1738年)9月30日 薨去 (78)
5日 櫻町天皇
はむろ よりたね
葉室 賴胤
名家 從一位
前權大納言
明和8年1771年8月1日 准大臣宣下
4年9個月 後桃園天皇
ひろはし かつたね
廣橋 勝胤
名家 從一位
前權大納言
安永5年1776年12月25日 准大臣宣下
4年8ヵ月 後桃園天皇
まつのき むねなが
松木 宗長
羽林家 正二位 → 從一位[7]
前權大納言
安永7年1778年1月15日 准大臣宣下
  • 安永7年(1778年)1月19日 薨去 (69)
5日 後桃園天皇
ひろはし これみつ
廣橋 伊光
名家 從一位
前權大納言
文化10年1813年9月20日 准大臣宣下
9年7個月 光格天皇
とくがわ はるさだ
德川 治濟
(一橋 治濟)
御三卿 入道 從一位
前權大納言
文政8年1825年7月18日 准大臣宣下
  • 文政10年1827年2月20日 薨去 (77)
1年7個月 仁孝天皇
ひの すけなる
日野 資愛
名家 從一位
前權大納言
弘化2年1845年10月28日 准大臣宣下
  • 弘化3年1846年3月2日 薨去 (67)
4個月 仁孝天皇
ひろはし みつしげ
廣橋 光成
名家 從一位
前權大納言
文久2年1862年閏8月5日 准大臣宣下

  • 翌日薨去 (66)
2日 孝明天皇
なかやま ただよし
中山 忠能
羽林家 正二位 → 從一位[7]
議定
前權大納言
慶應4年1868年閏4月26日 准大臣宣下
1年2個月 明治天皇
贈准大臣 家格 生前的極位極官 贈官日和過世日 没後 贈官時的天皇 備考
かじゅうじ まさあき
勸修寺 政顯
名家 入道 從二位
前權中納言
天文9年1540年7月28日 贈准大臣
  • 大永2年1522年7月28日 薨去 (71)
過世18年後 後奈良天皇
  • 後奈良天皇的舅舅
  • 出典:『諸家傳
おおぎまちさんじょう
きみなか

正親町三條 公仲
大臣家 正三位
前權中納言
慶長5年1600年6月26日 贈准大臣
  • 文禄3年1594年6月26日 薨去 (38)
過世6年後 後陽成天皇
やなぎわら あつみつ
柳原 淳光
名家 從一位
前權大納言
慶長18年1613年8月11日 贈准大臣
  • 慶長2年1597年8月11日 薨去 (57)
過世16年後 後水尾天皇
  • 出典:『繞史愚抄』

參考文獻

  1. ^ 准大臣. 日本大百科全書. 
  2. ^ 《藤原伊周傳》. 大日本史. 
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 准大臣(じゅんだいじん). 辞書. 
  4. ^ 和田英松. 官職要解 : 修訂 1926 3版. 明治書院. : 39頁. 
  5. ^ 薩戒記應永32年4月27日条。ただし、久保田收岡野友彦は、親房が東国から南朝に帰還した興国5年(1344年)春に准大臣を宣下されたと推測する。
  6. ^ 尊卑分脈
  7. ^ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 7.12 准大臣宣下に必要な要件の一つ「從一位」を満たすため宣下とのセットで行われた昇叙。
  8. ^ 勧修寺教秀は系図上は後奈良天皇の外祖父だが、後奈良天皇(知仁親王)が生まれたのは教秀の死去後のことである。
  9. ^ 勧修寺尹豊は後に従一位の位記を返上したため極位極官は正二位内大臣となった。
  10. ^ 資定卿記