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信浓国。
《信浓之国》(日语:信濃の国/しなののくに)是日本长野县的县歌,发表于1900年(明治33年)[1]。
简介
《信浓之国》由旧松本藩士族浅井洌(1849年-1938年)作词,东京府出身的北村季晴(1872年—1930年)作曲,于1900年(明治33年)完成。最初作为长野县师范学校附属小学的乡土唱歌创作,后来也作为其继承学校——信州大学教育学部附属长野小学的校歌传唱。
在太平洋战争结束前的1945年(昭和20年),《信浓之国》与《秋田县民歌》和山形县的《最上川》并称为“三大县民歌”。战后,《信浓之国》继续作为实际上的长野县歌传唱,直至1968年(昭和43年)5月20日被正式制定为长野县县歌。
1998年,在长野举行的第18届冬季奥林匹克运动会的开幕式和闭幕式上,《信浓之国》用于日本代表团的入场仪式[2][3]。
歌词
日文原词
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中文翻译
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信濃の国は十州に
境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く
流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺
四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに
万ず足らわぬ事ぞなき
四方よもに聳そびゆる山々は
御嶽おんたけ乗鞍のりくら駒こまヶ岳たけ
浅間は殊ことに活火山
いずれも国の鎮しずめなり
流れ淀よどまずゆく水は
北に犀さい川千曲ちくま川
南に木曽川天竜川
これまた国の固かためなり
木曽の谷には真木まき茂しげり
諏訪すわの湖うみには魚多し
民のかせぎも豊かにて
五穀ごこくの実みのらぬ里やある
しかのみならず桑とりて
蚕飼こがいの業わざの打ちひらけ
細きよすがも軽かろからぬ
国の命いのちを繋つなぐなり
尋たずねまほしき園原そのはらや
旅のやどりの寝覚ねざめの床とこ
木曽の棧かけはしかけし世も
心してゆけ久米路橋くめじばし
くる人多き筑摩つかまの湯
月の名にたつ姨捨山おばすてやま
しるき名所と風雅士みやびおが
詩歌しいかに詠よみてぞ伝えたる
旭あさひ将軍義仲よしなかも
仁科にしなの五郎信盛のぶもりも
春台しゅんだい太宰だざい先生も
象山ぞうざん佐久間さくま先生も
皆此この国の人にして
文武ぶんぶの誉ほまれたぐいなく
山と聳そびえて世に仰ぎ
川と流れて名は尽つきず
吾妻あずまはやとし日本武やまとたけ
嘆なげき給たまいし碓氷うすい山
穿うがつ隧道トンネル二十六
夢にも越こゆる汽車の道
みち一筋ひとすじに学まなびなば
昔の人にや劣おとるべき
古来こらい山河さんがの秀ひいでたる
国は偉人のある習ならい
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汨罗渊中波涛动
巫山峰旁乱云飞
昏昏浊世吾独立
义愤燃烧热血涌
权贵只晓傲门第
忧国此中真乏人
豪阀但知夸积富
社稷彼心何尝思
贤者见国衰微征
愚氓犹自舞世间
治乱兴亡恍如梦
世事真若一局棋
昭和维新春空下
男儿连结为正义
胸中自有百万兵
死去飘散万朵樱
腐旧尸骸跨越过
此身飘摇共浮云
忧国挺身立向前
男儿放歌从此始
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参考文献
- ^ 丸岛和洋“武田胜赖と一门”(柴辻俊六・平山优编‘武田胜赖のすべて’新人物往来社、2007年)
- ^ 渡辺裕‘歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ’中公新书、2010年
- ^ 角宪和‘本当の信州 信浓の国のかたち’2003年