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長坂昌國

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長坂 昌國
時代日本戰國時代
出生日期不詳
逝世日期不詳
别名源五郎、左衛門尉、筑後守(通稱)
主君武田義信武田勝賴
氏族長坂氏日语長坂氏
父母父:長坂光堅
兄弟弟:今福昌常英信
日語寫法
日語原文長坂 昌国
假名ながさか まさくに
平文式罗马字Nagasaka Masakuni
日語舊字體長坂 昌國

長坂昌國(生年不詳-卒年不詳)是日本戰國時代的武將。甲斐武田氏家臣。父親是長坂釣閑齋國清(光堅)武田信玄奧近習六人眾之一。

略歷

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生年不詳。仕於信玄的嫡男義信永祿7年(1564年),與義信的傅役(後見)飯富虎昌、以及曾根周防守等密謀暗殺信玄,在事前敗露。永祿8年(1565年)6月,與虎昌等一同被處刑。義信自身被廢嫡並,两年后因病去世[1](「義信事件」。『甲陽軍鑑』)。

他說

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在甲斐二宮美和神社奉加帳日语奉加帳中,被記錄與曾根等在永祿8年6月奉納日语奉納太刀。一說這是『甲陽軍鑑』誤記了義信事件發生的時間,實際上應該是永祿8年7月。

另外一說因義信事件而被處刑(切腹)的不是昌國,而是父親的從弟清四郎勝繁。與父親同樣,在天正10年(1582年)的天目山之戰中自殺。

相關條目

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  1. ^ 平山優「これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日